「宿」という場所は、時代ごとに人々の生活と密接に関わり、多様な意味を持ってきた。単なる「休息の場」を超え、宿は時に経済や文化の拠点となり、社会に影響を与える場として進化してきた。ここでは、古代から現代に至るまでの宿の変遷を追いながら、その変化が社会や地域にもたらした影響を考察する。
宿とは何か:原初の宿の形
大野(2020)の『宿泊業と宿泊施設の起源と発達の系図』は、宿の進化を一望できる分かりやすい図だ。左には、人類による旅の中で自然と生まれたであろう宿の形があり、右に行くほどに私たちが見慣れた宿泊業と他産業への分離への形へと分離していく様子がまとめられており、この図をたどれば宿の形がどのように変容してきたのかが一目でわかる。それでは、未来に繋がる宿の進化の旅を見ていこう。
「宿」の起源は古い。国家ができる前の古代においては旅人や異邦人が訪れると、地元の人々(主にその地方の有力者)が無償で自宅を開放し泊めてもてなした。大野(2020)によればこれは単なる親切心以上の意味を持ち、外からの旅人を迎え入れることで、外部社会の情報を得たり、有利な外交・交易条件を引き出したりなど地域社会の発展のためだったと述べている。「宿」という空間は古くから交易品や情報が流通し、異なる文化や知識が交流され、社会が変化し始めるための下地として重要な要素であった。旅人が運んでくる情報や商品が社会集団の利益に密接に関わるようになってくると、社会の中で提供するサービスと対価のルールや身元確認、旅行者の受入義務といったルールが生まれてくるようになる。
社会集団が国家として発達し、交易、宗教なども規模が大きくなるにつれて古代ギリシャやローマでは、国家が直接客人を迎え入れる迎賓館が設けられたり、また神殿や寺院周辺には宗教宿が建てられたり、公的な宿泊所も用意されるようになった。このような宿泊施設は、単なる「寝床」ではなく、巡礼者や商人が集まることで宗教儀礼や商取引の中心地ともなり、社会に影響を与える重要な場所であった。
日本も例外ではない。7世紀(奈良時代)に中央集権国家が成立して宿駅制度が整備されたり、国家と結びついた仏教は国分寺などの寺院を各地に建設し、これに付随して宿坊、布施屋・非田処等の宗教宿が発達するようになる。
私営としての発展
公的な発展ではなく、私営としても「宿」は発展していく。社会が発展して貨幣経済が発展していくことで、有償でもてなしをする「宿泊業」も現れるようになる。大野(2020)によれば各国の古代文明における居酒屋の多くが宿泊業や酒造業や食品小売業を兼ねていたことを示しているそうで、酒と食事に亭主(女将)等の接待が揃えば寝る場所があった方が便利だというのは当然の流れになることから、これが宿泊業の一つのルーツではないかと述べている。
こうして古代の時代には国家や宗教が人を泊めるための公的な宿が生まれつつ、自然発生的に私営の宿も生まれてきたと考えられている。
地域社会のインフラとしての宿、経済を形づくった宿
すでに古代から公的に発展していく「宿」と私営で発展していく「宿」があるが中世になってもそれは変わらない。公的な発展として、中世に入ると宿は地域社会のインフラとしての役割を強めるという。 中世(5~ 15 世紀)の欧州では国家と結びついた宗教権力が各地に建設した教会付属の宗教宿(巡礼宿)である。宗教宿は旅人への宿泊と食事の提供のみならず、教会の礼拝に伴う地域住民の集会所機能も有していたり、旅人の宿泊のみならず、病人、無宿者、行き倒れ人、孤児などの収容・治療・療養所として社会的弱者を救済する避難所ともなっていた。
また、私営の視点で見ていくと、宿は単なる休息所を超えて商人や旅人が集まる経済や交流の中心地として発展。16世紀には商業経済の発達と共に私営の宿屋が広まり、18世紀以降、都市部では集会や商談の場としての役割も増した。英国の「イン」は馬車の発着点として利用され、宿泊や運送業を兼ねる多機能な施設へと発展した。
日本でも中世末から関所と共に宿場が形成され始める。五街道と脇街道及び参勤道が整備された江戸時代に宿場町が成立。宿場には歴史的に問屋場、本陣、脇本陣、旅籠、木賃宿、茶屋などが建ち並んで賑わった。宿場は単に旅人が休息するための場所ではなく、商人や職人が集まり、経済的活動の中心地として機能していた。
すでに中世の宿の役割としては、商人や旅人が持ち寄る情報や物質の触媒の場として、社会と地域の経済を支える基盤としての意味を持っていたことは間違いない。宿は、地域経済の発展を支え、人々の交流やそれぞれの地域の文化をを促進する場としても変わり始めた。
ホテル・旅館の誕生
近世に入ると、馴染み深いホテルや旅館が登場する。
ホテルにに関しては、この語源については歴史は古い。「ホテル」という言葉の語源は、ラテン語の「hospes」に由来し、これは「客人の保護者」を意味している。この語から派生した形容詞「hospitalis」は、「歓待する」「手厚くもてなす」「客を厚遇する」といった意味を持っている。hospitalis」が中性化して「hospitale」となり、中世ラテン語では「接待用の宴会場」、後期ラテン語では「来客用の部屋」を指すようになった。この言葉がさらに古フランス語の「(h)ostel」に取り入れられ、17世紀には英語に借用されて現在の「hotel」に発展したとされている。「ホテル」という概念には、もともと客をもてなし、歓迎するという歴史的価値観が含まれていることがわかる。
“hospes”の語源は古ラテン語の“hostis”とラテン語の“potis”の合成語であるとされている古ラテン語の”hostis”は「他国の人」や「見知らぬ人」を意味し、また「敵」「対抗者」「反逆者」といった意味も持っていた。一方、ラテン語の”potis”は「力を持つ」「可能である」といった意味を表している。
ではどのようにホテルは生まれてきたのか。ヨーロッパとアメリカでの異なる発展を見ていきたい。
まずはヨーロッパ、18〜19世紀のパリでは都市住民の増加と流入する旅行者によって、外食と宿泊の需要が急激に高まっていた。しかし、当時の食事提供施設は、居酒屋、カフェ、仕出し屋といった旧態依然のものばかりで、新興の裕福層には到底満足のいくものではなかった。そんな中で登場したのが、「レストラン」という新しいコンセプトである。その背後には、近世の貴族の邸宅というモデルがあった。都市に住むようになった貴族たちは、宮廷文化と社交文化の発展により、邸宅に多数の客室や食堂、談話室などを備えていた。そこには、料理人や給仕、メード、執事など、サービスのプロフェッショナルが揃い、無償の歓待であっても宿泊客をもてなすシステムが完備されていた。こうした貴族の邸宅でのもてなしをコンセプトにしたレストランが宿泊施設と融合して、現代のホテルの原型を形作っていくことになる。
一方、アメリカでは別の需要からホテルが生み出されてきた。アメリカ合衆国が独立し、国民としての統一意識が芽生えたタイミングで、政治や社交のための集会場が必要とされ、ホテルがその役割を担うようになった。
初代大統領ジョージ・ワシントンが巡視旅行を行う際、特定の勢力に偏らず公正な宿泊を確保するために植民地時代からあったパブリックハウスやタバーンといった宿に泊まったが当時こういった宿は男性が集い、酒を交わしながら議論や交流を行う場であり、施設的に粗末なことが多かった。この経験が、格式のある公共の場としてのホテルの需要を一気に高め、公共性と公平性を兼ね備えた空間としてのホテルがアメリカで求められるようになった。
また、日本でもこうしたおもてなしの代表格とされる「旅館」は江戸時代に発達したと言われる。
旅館は江戸時代に発達したさまざまな「宿」の機能を統合し、明治時代に日本独自の宿泊ビジネスモデルとして完成したものである。江戸時代には長期にわたる政治の安定を背景に、多くの人々が街道を行き交い庶民も含めた豊かな旅文化が生まれていたが、旅人のための「宿」は幕府の政策により立地や用途に応じた厳しい規制が設けられていたという。
主要な街道には、参勤交代の大名を受け入れる「本陣」、下級武士や庶民のための「旅籠」があり、「本陣」には格式高い門や玄関が備えられていたが、宿泊者である大名への食事や接待は大名自身が用意するのが基本であった。一方「旅籠」では、17世紀中頃から夕食と朝食の二食を提供しており、旅の楽しみの一つとなっていた。江戸時代後期には、接客を行う「飯盛女」を雇う旅籠も現れている。また、湯治場には治療目的の「湯治場宿」があり、身分に関係なく自炊をしながら長期滞在できる仕組みが整えられていた。
明治維新を経て、江戸幕府が定めていた規制が撤廃され、各種の宿の機能が集約された結果、現代の「旅館」という形態が生まれたのである。大久保(2013)の「近代旅館の発展過程における接遇(もてなし)文化の変遷」に記載の図ではどのように機能が集約されたかがわかりやすくまとまっている。
「宿」の多機能性の喪失
大野(2013)によると、ホテルや旅館の交流機能は歴史的に変遷してきたが、現代では多機能性が失われ交流機能も低下しているのだという。近世の宿屋は、宿泊だけでなく居酒屋、雑貨店、問屋、さらには銀行の役割も果たす多機能な場であった。そこでは食事を通じて、旅行者同士や旅行者と地元住民、さらには住民同士の交流が生まれていた。しかし、近代に入ると、宿泊施設の機能の一部が分離され、長期滞在は不動産賃貸業へ、小売業は流通業へと移行した一方で、宿泊に密接に関連する料飲機能のみが発展し、グランドホテルや旅館といった人々の交流を中心とした宿泊産業へと進化した。
現代ではあらゆる産業が分業化・専門化され、料飲機能も宿泊産業から切り離されつつある。アメリカでは1980年代、日本では1990年代から、ホテルが自社内での料飲サービスを縮小またはアウトソーシングする動きが進み、宿泊特化型・宿泊主体型ホテルという業態が生まれた。現在では、「同じ事業者が一つの施設内で宿泊と食事を提供する」という従来のビジネスモデルは、「外食産業や健康リラックス産業など多様なサービス業との相互補完・相互依存モデル」へと移行している。この傾向は、サービス業の分業化・専門化が進む都市部で特に顕著だが、観光地においても、滞在型旅行に対応するため、料飲機能を縮小した一泊朝食付きの旅館やサービスアパートメントといった、宿泊と食事を分離した業態が求められるようになっている。
「宿」は多様な体験価値の提供空間へ
「宿」という場所は現代に入って様々な形へと変化していき、今ではシティホテル・観光ホテル・ビジネスホテル・駅前旅館・割ぽう旅館・民宿、ベッドハウス・山小屋・カプセルホテル・民宿などそれぞれの場所や用途によって細かく分類される。また、民泊、グランピング施設など、新しい宿泊形態も次々と登場し、人々はその空間での「新たな体験」を望んでいる。宿泊業に対する法律もこうした変化する需要に対して姿を変えている。「宿」という空間の意味合いについて、古代から現代に至るまで、時代ごとに社会と人々のニーズに応じて見てきたが、宗教儀式の場、経済と流通の拠点、国際交流の場、とその姿を変えてきた。今後も宿はさらなる多様性を持ちながら、地域と社会の新たな価値を創造し続けるだろう。
参照:
石井昭夫(2015) アメリカ・ホテル発展史
尾家建生(2023) 宿場町の場所性と再生―歴史的価値から価値共創へ―Placeness and Revitalization of The Post Town- From Historical Value to Value Co-creation - - 第38回日本観光研究学会全国大会学術論文集(2023年12月)pp. 249- 254
大久保あかね(2013) 近代旅館の発展過程におけるもてなしの文化の変遷. 観光文化217号. 公益財団法人日本交通公社
大野正人(2013) ホテル・旅館の交流機能と文化表現の変遷と将来. 観光文化217号. 公益財団法人日本交通公社
大野正人(2013) 近代社会におけるホテル・旅館の誕生. 観光文化217号. 公益財団法人日本交通公社
大野正人(2020) 古代から近世における宿泊施設と宿泊業の発達過程の研究 商大論集
中村賢一(2007) ホテルにおける顧客満足 ― ホスピタリティ・マネジメント―. メルパルク東京、東洋大学大学院
王晞妤(2022) 「おもてなし」、「ホスピタリティ」、「サービス」の語源や意味合いについての考察. 人文公共学研究論集 第 45 号