日本ではスキーやスノーボードは大衆に広まり、多くの人が楽しむようになったが、スキーの大衆化に欠かせなかったのがスキー場の誕生や周辺の宿泊の環境、交通インフラ、発展していく観光業だ。どのようにスキーは大衆化していったのだろうか。
そもそもスキー場・スキーリゾートとはなんだろうか?
そもそも「スキー場」の定義とは一体なんだろうか?呉羽 (2014)はスキー場の閉鎖・休業におけるスキー場のカウントを行うときの「スキー場」における指標として、「スキーリフトが設置されているかどうか」を基準にしている。また、簗瀬, 西尾(2021)は以下のように「スキー場」について述べている。
スキー場とは、スキーやスノーボードを行うための積雪した斜面(ゲレンデ)をメインとするものであるが、低地から斜面の上まで人を運ぶリフトが設置されてはじめてスポーツの場としての機能を果たす。スキー場の収入源は、主としてこのリフト利用料金によるものである。
スキー場の経営戦略に関する考察

では一方で「スキーリゾート」とはなんだろう?スノーリゾート地域の活性化に向けた検討会の定義で「スキー場」と「スノーリゾート」の定義の違いには以下のように書いている。
○ 「スノーリゾート」の狭義の概念としては、スノースポーツを楽しむための施設で、スキーやスノーボード等で滑走する斜面(ゲレンデ)、スキーヤーやスノーボーダーを高い位置へ運ぶ索道施設(リフト・ゴンドラ)、休憩・食事施設等で構成される「スキー場」がある。国内では、長らくスノースポーツを楽しむ場として「スキー場」の概念に親しみがあった。
○ 一方で、「スノーリゾート」の広義の概念として、スキー場のコースでスノースポーツを楽しむだけではなく、スキー場で雪遊びをする、安全に留意しつつスキー場外の雪道を散策する、スキー場周辺の街なかなどで食事やショッピング等を楽しむ、旅行者と地域の人々が交流するといった、多様な活動の概念があり、海外ではそれらの概念がより一般的である。
「スノーリゾート地域の活性化に向けた検討会」最終報告~世界に誇れるスノーリゾートを目指して~

これらの定義を踏まえて、スキーリゾートの発展には、呉羽(2017)によればスキーリゾート・スキー観光の発展を以下のように分けている。
- スキーの移入
- 第二次世界大戦前のスキー技術の伝播とスキー観光 ( ~ 1946)
- スキー観光復興期(1946 - 1955)
- 展開機(1955 - 1980)
- 発展期(1980 - 1993)
- スキー観光停滞期(1993年以降)
この分類に沿って、スキーリゾートの発展について見ていく。
スキーの移入 : スキーはどのように日本に入ってきたのか?
スキーは長い歴史を持ち、雪上を移動するための単純な目的から始まり、スポーツやレジャーの形に発展してきた。その起源は5000年か6000年前までさかのぼると言われており、その起源にはさまざまな説がある。現在馴染み深い「アルペンスキー」はオーストリアで生み出され、1911年にはオーストリア・ハンガリー帝国のテオドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が来日し、日本で初めての本格的なスキー指導が陸軍第十三師団歩兵第五十八連隊(現在の上越市高田)で行われた。
第二次世界大戦前のスキー技術の伝播とスキー観光 ( ~ 1946)
レルヒ少佐によってもたらされたスキーは文部省が講習会を毎年開催することで大衆にも広まっていく。(1) また1918年頃から登山家がスキーを使い始め、大正末期には「アルペンスキーの父」とも言われたハンネス・シュナイダーによる映画「スキーの脅威」や、書物が日本に入ってくるようになり、年々山スキーを楽しむ人が増えていった。(2)

戦前はまだリフトもなく、「スキー場」とよばれるものもなかったが、徐々にスキーリゾート・スキーツーリズムの原型となるものができていく時代でもある。この時代の動きを見ていく。
鉄道省による「スキー地」の紹介
日本ではスキー滑走は大正期(1912 - 1926)の中頃までに全国的に知られるようになり、なだらかな山の斜面や丘陵地、城の坂道、川の土手などでスキーが行われるようになったのだが、昭和の初めまで「スキー場」ではなく、「スキー地」と呼ばれていた。(1)

この時代から文部省が大衆にスキーを普及する講習会も毎年開催するようになったこともあり、この時期から都会から鉄道を利用したスキー・ツーリズムが盛んになっていくようになる。(1) 鉄道省は1924年に「スキーとスケート」を出版し、鉄道沿いの全国役五十一ヶ所の「スキー地」を紹介している。

呉羽 (2017)はヨーロッパ・アルプスで起こったように日本でもスキーの有する意味に変化があったと述べており、初めにあった登山・移動手段としてのスキーから、ゲレンデ内で滑ることがスキーとして捉えられ、スキー場がレクリエーションの空間として捉えられるようになった。
スキーリゾートの原型
レクリエーションのスキーが広まっていく中で、徐々に温泉地や農村で現在のスキーリゾートの原型が形成されていく。スキーはレクリエーションとして積雪地域の人々に普及し、多くのスキークラブが創設され、特に温泉地でのスキークラブが顕著だった。(3)当時積雪温泉地では冬場は利用者が少なかったため、冬場の利用者増加のために旅館経営者は積極的にスキーの導入に取り組んだ。(3)温泉地以外でもスキークラブが創設されていき、住民が積極的にスキー場を整備した。
スキーが普及する中で宿泊体制の整備も進みスキーリゾートとしての基盤が形成されていく。民宿の発祥の地とも言われており、スキーリゾート地としても有名な白馬村では民宿の発生起源として19世紀末から始まった登山文化も深く関係している。当初、登山者は地元ガイドの家に善意で泊まっていたが、1910年代には冬山登山や山岳スキーの広がりとともに宿泊が有償化され、これが民宿の原型となった。1920年代後半、鉄道の開通や不況の影響で、農家が現金収入を得る手段として民宿が本格化。特に細野地区(現・八方)では公式な民宿営業が始まり、日本の民宿文化の先駆けとなった。戦後にはリフトやケーブルカーの導入で全国的なスキーリゾートへと発展。民宿も急成長し、白馬村は登山文化を基にスキーリゾートの形を築き上げた。(民宿とは)
1937年には志賀高原丸池に「志賀高原温泉ホテル」、妙高赤倉温泉「赤倉観光ホテル」が建設されるなどスキーリゾートの核となる洋風ホテルも建設されていき、こうして温泉地や農村に徐々にスキーリゾートの原型が生まれていく。(3)
スキー観光復興期(1946 - 1955)
「スキー場」が本格的に誕生するのはこの時期にあたる。第二次世界大戦直後には札幌藻岩山と志賀高原丸池に日本最初のリフトが設置され、1950年頃からはスキーリフトを伴った本格的なスキー場開発が開始されるようになった。(3)

こうして、今最も馴染み深い「スキー場」の形が出来上がることになる。
展開期(1955 - 1980)
1955年~1973年の間は日本では高度経済成長期であり、住宅や自動車・カラーテレビ・電話などの普及も進み、生活基盤が整っていった時代にある。1961年には「レジャー」が流行語となり、各地の観光地への旅行客が増加し,スキーも冬季のレジャーとして注目が集まった時期とも言える。(5) この時期にはどんな動きがあったのだろうか?
国民の所得増大・レジャー大衆化
この時期にスキーが普及した要因として、国民総生産(GNP)・国内総生産(GDP)が1968 年以来世界2位という経済力が挙げられる。(4)
レジャーにお金を使えるようになったことで、スキーも60年前後から人気が高まっており、当時は「神風スキーヤー」と呼ばれるスタイルが流行した。この時期になると雑誌・映画でもスキーについて取り上げられるようになり、1961 年 11 月には平凡出版発行の週刊誌『週刊平凡』(Vol. 3 No. 45)において「特集 スキーを楽しむ若い人たちのために あなたのスキー準備はできましたか! ?」という特集記事が取り上げられていたり、1966年には加山雄三主演の東宝映画『アルプスの若大将』が公開され、スキー人気がさらに高まったと言われる。(5)
また、1972年の札幌オリンピックでは、70m級ジャンプで笠谷幸生が金メダル、金野昭次が銀メダル、青地清二が銅メダルとメダルを独占し、「日の丸飛行隊」呼ばれて大きな話題を呼んだことにより、これがさらなるスキー人気にも繋がった。(5)
スキーツアーの発展
伝統的にスキー旅行は鉄道交通の利用だったが、交通の便が発達し、スキーツアーも発展していく。1961 年には夜行日帰りのスキーバスが登場。(5)1972 年には全日本空輸からスキー旅行者を対象としたパッケージツアー「ANA 北海道スキーパック(スカイホリデー)」が発売され、1974(昭和 49)年には日本航空も同様のパッケージツアー「JAL ジェットプラン」を発売し、三大都市圏から北海道へのスキーツアーの利便も増して行った。(5)
スキー場周りの施設の多様化
スキー場の開発増加によって、新たな宿泊施設も増えて行った。民宿とペンションだ。スキー人口の増加で安い宿泊施設が不可欠になったことで、農家が家屋の一部を改造して営業する民宿が急増する。農家の副業としての必要性もあり、冬期は民宿経営、それ以外は農業を生業とする積雪農村が定着していく。(3)また、洋風民宿であるペンションも、日本においては1970年に草津温泉の中沢ヴィレッジで第1号のペンションが誕生し、その後1980年には全国で600棟以上が建設されるまでに成長を遂げた。
*民宿とは〜民宿の歴史、その他の宿泊スタイルとの違いから見る民宿のあり方
スキー客を都市からゲレンデまで運び、宿泊させるというインフラやサービスが整わなければスキーはできないため、こうした宿泊施設の発展やスキーツアーなど観光業はスキーの大衆役に一役になった。(4)
スキー場開発・リフト建設の増加
こうして所得増大、レジャーの大衆化、スキーツアーの発展などの要因からスキーヤーの増加が進んでいくことで、スキー場開発やリフトの建設も増加していく。
またスキーヤーの増加以外の理由もある。1970 年代までに開設されたスキー場の多くは農村部の農閑期の副業的な傾向があり、豪雪地帯の地方自治体も「スキー場があれば住民が出稼ぎに行かなくて済む」ということから地域住民の健康向上目的と合わせて公営スキー場を設置するという理由もあり、スキー場開発が進んだ。(5)。十日町市松之山にある黒倉集落の1980年代の積雪農村の暮らしを垣間見るとこの時代の冬の農閑期は東京に出稼ぎに行くことは珍しくなく、農村に残ったものは家屋根の雪掘り、道つけや、ワラ仕事などもしていた。その中でスキー場ができ、近くに仕事ができることはとてもありがたいことだったのだろう。実際現在の十日町市にも「松代スキー場」「松之山温泉スキー場」等のスキー場が農家の雇用を支えている。
1972 年には田中角栄が内閣総理大臣となったが田中角栄の基本政策は、「日本列島改造論」と言われ、豪雪地帯と大都市の間に新幹線や高速道路などの交通網を整備して豪雪地帯に新産業を興し、過疎化を解消することにあったため、こうした理由でもスキー場開発が進んだ。下記は1960 - 2020のスキー場数の推移の図になる。

リフト件数もスキー場増加と共に増えていく。1971年には志賀高原で初めてのペアリフトが建設された。下の図は全国既存索道基数の図であり、展開期の(1955 - 1980)には150基が建設された。

オイルショックで低成長時代へ
1970年代半ばにはオイルショックの影響で低成長時代になり、新規開発が急激に減少する。
発展期(1980 - 1993)
日本のスキー観光が最も発展した時期として知られているのがこの発展期になり、バブルの到来と共にスキーがまた盛り上がるようになった。1980年代後半から1990年代にかけてのスキー人口はピークの1800万人を記録するまでに成長する。この時期の動きを見ていこう。

アクセスがさらに便利に
大都市から積雪地域への高速交通網も完成し、さらにアクセスが便利になった。1982年には中央自動車道が全通。また東北新幹線の大宮―盛岡間,上越新幹線の大宮―新潟間が開業した。 (5) さらに1985年には関越自動車道が全通し、東北新幹線・上越新幹線も上野まで利用できるようになった。こうして高速道路網や新幹線網の整備が整備されることで首都圏から甲信越方面のスキー場へのアクセスが大幅に改善されることになる。(5)
キャンペーンやコンテンツがブームを後押し
キャンペーンやさまざまなコンテンツもこのブームを後押しした。代表的な例は1987年に公開された原田知世主演の東宝映画「私をスキーに連れて行って」がヒットし、スキー人気に拍車をかけた。1990年の「JRSKISKI」SKISKIキャンペーンなども人気を後押しした。
スキー場開発ブームへ
スキー場の開発ブームがまた訪れる。呉羽 (2017)は開発されたスキー場をリゾート型スキー場とコンビニエンス型スキー場に分けることができるという。
リゾート型スキー場はリゾートホテルを備えているスキー場で北海道のトマムや岩手県の安比高原などを例に挙げている。(3) 1987 年には「総合保養地域整備法」(通称リゾート法)が制定され、民間事業者の活用に重点をおいて総合的に整備することが推進された時代。(5)またバブル経済の時代であり、土地など不動産への投機的投資のであまり投資対象となりにくかった遠隔地も「リゾート開発」を名目に高値で取引された。そのため民間ディベロパーが多くの資金を集めて投入してリゾート開発計画を進めたのも開発ブームの要因になる。(5)
一方で、コンビニエンス型スキー場は首都圏近隣で日帰りのスキー旅行に対応したスキー場で、代表例として新潟県の神立スキー場や群馬の川場などが例として挙げられる。(3)
「索道のあるスキー場数の推移」のデータによれば、ピークは698までスキー場が増えた。

スキー場内設備の技術革新
輸送能力の高いスキーリフト、人工降雪機、圧雪車など、スキー場内の設備も技術革新が起きた。(3) スキーリフトは1970年代までは1人乗りだったが、1980年代からは今私たちにも馴染み深い二人乗りチェアリフトがメインとなった。(3)
スキー観光停滞期(1993年~)
こうしてブームになったスキーツーリズムだが、バブルが崩壊すると停滞期に入り、スキー人口も減っていく。1998年の長野オリンピックではジャンプやモーグルで日本人選手が大活躍し、その影響か 1998 年はスキーとスノーボードの合計人口が一時上がったものの(5)、そこからまた減少傾向を示している。

スキー人口が減るに連れ、スキー場開発やリフト建設の数も減っていく。

スキー人口の減少要因
バブル崩壊によって多くの人がレジャーに使うお金を減らすようになった。スキーおよびスノーボードは用具代やウェア代、リフト券代に加えてスキー場までの交通費、宿泊費、飲食代など10 代〜20 代の若者にとってかなり重い負担となる支出を必要とするレジャーであるため、バブル崩壊後の不況期には影響は大きい(5)
また、90年代に入ると大学生や20代の世代ではもはやスキーは流行ではなくなり、多様化したレクリエーションの一つとして捉えられるようになった。(3) 80年代にはレジャーが多様化。83年に開演した「東京ディズニーランド」をはじめとする遊園地やテーマパーク、83年に任天堂が「ファミコン」を発売し、そこからTVゲームという新しいレジャー市場を形成、ゲームセンターなどの人気も高まる。レンタルビデオも80年代に登場。90年代には携帯電話も普及し、レジャーが多様化していった。
スノーボードの登場〜スキー場低迷期に生まれた新潮流
1990年代、スキー場は新たな変革期を迎える。スノーボードの存在だ。このスポーツは、従来のスキー文化に挑戦し、スキー場が低迷期を迎える中で新たな光をもたらした。
1960年前後から1990年頃まで連続的ではないにしろ日本でスキー場開発ブームが見られ、80年代のバブル期はスキー自体が流行の先端だったため、索道経営会社は特別なサービスを提供しなくても、多くの顧客を獲得できた。(3)しかしバブルが弾けると顧客獲得のために経営を変えていく必要性がで始め、来訪者への減少を食い止める努力がなされてきたという背景がある。モーグルやフリースキーなどに力を入れるスキー場、遊具やスキー学校が整備され、子供向けに特化されたスキー場などが出てくるなどスキー場でも多様化が進む中、以前はスノーボードの滑走は不可とするスキー場もスノーボーダーを積極的に受け入れる動きが出てくるようになる。(3)
サーフィンやスケートカルチャーに影響を受けながら生まれたスノーボードがスキー場に出現するようになったきっかけは1980年代のバートン・スノーボードの創業者ジェイク・バートン・カーペンターの取り組みによる。リフト乗車の許可、安全基準の制定、スノーボーダー向けガイドラインの導入により、スノーボードがまずアメリカで急速に広まった。日本では1979年、モス社が「雪用サーフボード」を発表し、その後バートンが市場に参入。1990年代には海外の「ニュースクールムーブメント」の波に乗り、スノーボードはライフスタイルスポーツとして昇華していく。
フリースキーもこのスノーボードに派生して出現する。フリースキー発生の背景には1970年代にモーグルやエアリアルが台頭し、「フリースタイルスキー」として注目を集めたが1979年に国際スキー連盟(FIS)が正式競技化したことで、安全性を重視した厳格なルールが導入され、一部の自由な技術が排除され、これに対する反発として、1990年代に「フリースキー」が誕生。ツインチップスキーの登場により、後ろ向き滑走やパークでのアクロバティックな動きが可能になり、ハーフパイプやテレインパークを舞台に新たなスタイルを築いた。
*スノーボードの歴史:スノーボードがもたらす意義と文化的変遷
*フリースキー・フリーライドスキー・フリースタイルスキーとは:多様化するスキースタイルの特徴と歴史を紐解く
日本のスキー場もこれらの動きに迅速に対応。スノーボード禁止を撤廃するスキー場が増え、モーグル大会やフリースタイルイベントが開催されるようになった。ハーフパイプやパークの整備によりターゲット層を拡大し、低迷していたスキー場に新たな楽しみ方を作り出した。
2000年以降の新しい動き(2000 ~)
2000年以降もスキー人口は減り続けているものの、新しい動きが出はじめた。
インバウンドが増加
2000年代に入ると、ニセコのパウダースノーに魅せられた外国人観光客が急増する。主にオーストラリアから来る人々で、本格的なスキーヤーが訪れるようになり、日本のパウダースノーがJAPOW(Japan Powder) として注目されるようになる。
観光のやり方も従来とは根本的に異なる。従来ニセコエリアを訪れていたスキー目的の日本人旅行者は短期滞在が主流であったが、オーストラリアからの旅行者は2 週間ほどの長期滞在が非常に多くなった。(6) また、日本人客と外国人客の違いはスキーのスタイルにも現れ、具体的には外国人のスキーヤーの中にはゲレンデから外に出てバックカントリースキーあるいはサイドカントリースキーを楽しむニーズが増えてきた。(6) この変化がヒラフスキー場から始まりニセコ町に及ぶのは2004 年頃であり、ニセコエリアの観光のあり方に非常に大きなインパクトを与えることになる。(6)
以下はオーストラリアの宿泊者数をまとめた図になる。

アジアからも多くニセコに訪れている。

この動きはニセコだけにとどまらず、長野県の白馬や野沢温泉村など、徐々に広がりつつあるが、2019年から広がったコロナウイルスの影響もあり、インバウンドは今後どうなるかは分からない。
今後も引き続き日本のスキーはどのように変化していくのか、注意深く見ていきたい。
注:
(1) 新井博, 三浦哲, 多田憲孝, 池田耕太郎, 竹田唯史, 布目靖則, 呉羽正昭, 山根真紀, 日本スキー学会 (2021)
(2) 長岡(1996)
(3) 呉羽 (2017)
(4) 小林, 佐々木(2010)
(5) 柴田(2014)
(6)石黒, 木村, 天田(2021)
参照:
呉羽正昭 (2017). スキーリゾートの発展プロセス: 日本とオーストリアの比較研究. 二宮書店
呉羽正昭(2014) 日本におけるスキー場の閉鎖・休業にみられる地域的傾向 : スキー研究 Journal of Ski Science Vol.11, №1, 27-42
長岡忠一(1996). スキーの原点を探る―レルヒに始まるスキー歴史紀行 協同印刷株式会社
簗瀬歩, 西尾宏太良(2021). スキー場の経営戦略に関する考察.
新井博, 三浦哲, 多田憲孝, 池田耕太郎, 竹田唯史, 布目靖則, 呉羽正昭, 山根真紀, 日本スキー学会 (2021). スキー研究100年の軌跡と展望 道和書院
小林勝法, 佐々木正人(2010) レジャー・スキーの大衆化に果たした観光業の役割に関する研究課題. 文教大学国際学部紀要 第20 巻2 号
柴田高(2014).ポストバブル期のスキー場経営の成功要因. 東京経大学会誌 第 284 号
石黒侑介, 木村宏, 天田顕徳(2021) ニセコ町観光の諸相と観光振興ビジョン策定に向けた展望 : ニセコ町観光振興ビジョン策定に係る調査研究委託業務報告書. 北海道大学観光学高等研究センター