稲作の歴史:稲作からみた日本の成り立ち

米と日本は深い関わりがあり、単に食料としてだけでなく、経済や文化に大きな影響を与えてきた。そんな稲作と日本の関係性について見ていく。


稲作の手順

稲作の一年の流れやそもそも稲作とは何かは下記にまとめた。


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稲作りの起源はいつなのか

人類にとって狩猟採集から農耕社会への変化は大きな変化の一つだった。一箇所に定住して作物を栽培し、食物に余剰ができることで、食糧生産のためだけに働く人が減ったからだ。結果、軍隊を養ったり、文明が発展し帝国ができたり、様々な発展に結びつくのだが、この狩猟採集社会から農耕社会に変わるという点で「穀物」は人類にとって大きな役割を果たしたと言える。


食の歴史:人類は食とどのように向き合ってきたのか

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日本で最も多く育てられている穀物といえば、やはり稲が挙げられるわけだが、では最初に稲はどのように入ってきたのだろうか?実は、研究者の必死の努力にもかかわらずこの問いに対する定説はないとされ、また、 稲作の渡来は、水田稲作に限定すればいまから約三〇〇〇年前とされている。(1)


田が国家で運営されるようになる

弥生時代(B.C.10 - 300頃)になると、水田稲作が広まり、計画的に米が生産される農耕社会が始まるようになる。国をあげて稲作のための工事が始まるようになり、稲作が国の政治や経済の重要な側面になっていった。(1)

水田と灌漑施設(溜池や水路)の拡大、治水や灌漑で共同作業のために村ができ、グループができていった。紀元後3世紀の日本には30の国があり、女王・卑弥呼(ひみこ)が統率する邪馬台国(やまたいこく)のような大きな国が存在していた。

国家の運営によって計画的に食料が増産されるようになったが、それによってどのような影響が出ただろうか?


人口増加

日本の人口は稲作の開始後に増加していき、縄文時代のピーク時には27万人の人口が、弥生時代には60万人、古墳時代に500万人、江戸時代に3000万人を超えたとされ、こうした人口の推移は米の生産量の増加に伴っているとされる。(2)


分業と文明化

集団で暮らすようになり、安定的に食料が手に入るようになった時、分業が可能になった。この時代には土器や石器を作る専門の人や、豊穣を祈る祭祀者などが現れた。(2)


国家の運営から民間の運営へ

弥生時代(B.C.10 - 300頃)から水田が国家で運営され、計画的に食料が生産されていったが、時代が進むと運営が民営にシフトしていく。そのきっかけは、743年の墾田永年私財法で「荘園」が登場したことから始まる。(1)


そもそも国家運営はどのような仕組みだったのか

田んぼは天皇に帰属し、人々には口分田の形で貸し与えられるという班田収授の仕組みがあった。(1)

しかしこの仕組みだと、農民は新しく農地を開拓することができず、さらに人口が増えると分け与える田んぼも増えていくため、人口の増加に田の増加が追いつかなくなっていった。


土地の私有を認める

そこで、743年の墾田永年私財法土地で土地の私有が認められるようになった。この法律によって開墾した個人が田んぼを永久に所有できるようになった。

これにより、大貴族や有力な寺などが積極的に田を開墾し、私有地を増やしていくことになる。

やがて荘園は増え続け、農民が富を蓄積し始めると、荘園の土地争いや役人からの税の取り立てに対抗するために武装するようになる。(4) これが武士の始まりとも言われる。


戦国時代と稲作

戦国時代(1467年~1615年)に入るといかに自分の領土を拡大し、お米の収穫量をあげていくかが重要になった。


軍事行動は秋の収穫後

農繁期に農民の労働力を取り上げると領国の経済状態が悪くなるため、秋の収穫後に軍事行動し、春の農繁期に帰村することを強いられていたという。(1)


早期栽培が好まれる

また、常に田んぼは敵の的になった。もし敵の田んぼに作物があれば、現地調達ができるし、相手に対して兵糧攻めという形にもなる。(1)

なので早生品種の選択や早期栽培の技術が好まれたとされる。


田んぼを守る堤防

お米を多く収穫するために、荒地を開発して田の面積を増やし、また水害から守る必要も出てくる。

自国の田んぼを守るための工事も行われた。


全国的に大きく変わる土地制度

今までは戦国大名が自分達の領土を各自で調査をしていたが、安土桃山時代(1568-1600)に入り、豊臣秀吉が全国で統一的に調査を行うようになった。(太閤検地)

1582年に太閤検地によって全国の土地、収穫量、年貢量が記録され、「一地一作人」の原則を定めた。(今までは権利が複雑に絡み合って誰がその土地の税を納めるべきなのか複雑で分かりにくくなっていたが、土地を耕している人を土地の所有者とすることでシンプルにした。)

天下が統一されて江戸時代になると、江戸幕府が様々な法律で農民を統制していくようになる。


貨幣としての米

米は、食料という側面の他に、貨幣の役も与えられていた。


税としての米

米は税として昔から対象とされていた。645年には班田収授法が制定され、6歳以上になると田んぼ(口分田)が貸し与えられ、収穫した米から税を支払う仕組みになっていた。

米を税として収めるという制度は明治時代の地租改正が施行される1873年まで1000年以上も続いた(2)

豊富秀吉の太閤検地でも土地と所有者の調査が行われ、地質や面積を元にどれだけの米が取れるかを表す石高が計算されてすべての土地で石高が決められ、年貢の量が決まった。


給料としての米

江戸時代の武士たちは、原則として給料を米でもらっていた。しかし武士は米をもらっても買い物ができないため、「差札」でお米と金や銀を交換してもらっていた。


先物取引

堂島米市場ではすでに先物取引市場になっていたともされている。江戸時代には米の取引が盛んに行われていたが、米切手という証券のようなものを通じて米を売買する市場もすでに生まれていた。(3)



発展していく米食文化

江戸時代(1603年 – 1868年)までには、数多くの米を使った料理が誕生していた。寿司として食べたり、米粉にしてお菓子として食べたり様々な利用がされた。米を米麹にすることで、日本酒、酢、味噌、醤油など日本の代表的な調味料も作られていった。



稲作と祭り、年中行事、伝統芸能の関係

日本で行われている祭りや年中行事、伝統行事は稲作とも深く関わりを持っている。


稲作と祭り

祭りには稲作から発したものが多い。

作物が自然から受ける影響は大きく、かつ一方で収穫の恵みを与えてくれる自然の力に人々は神を見出し、感謝の心を「祭り」として表現することで実りが保証されると考えた。(2)

田の神をまつる信仰は各地に受け継がれており、多くの地域の信仰の共通点として、田の神は田植えをする春に山から降りてきて稲が育つのを見守り、秋の収穫後に山へ帰るという考え方がある。(2)

田遊び、水口祭、虫送り、新嘗祭など様々な田に関連する祭りが残っている。


稲作と年中行事

年中行事も深く米作りと関わりを持っている。

例えばお正月は年神を迎えて新年を祝い、健康や幸せを祈る行事として知られているが、年神はもともと稲を実らせる田の神でもある。(2)

そのためにお正月には鏡餅やしめ縄など、稲にまつわるものが飾られる。(2)

春になると、花見が行われるようになるが、日本を象徴する桜は、田の神が座る場所に由来すると言われている。(2) 

大昔、田の神は「さ」と呼ばれ、「くら」は座る場所という意味の言葉だった。(2) 花見では農作業が本格的に始まる前に田の神を迎え、豊穣を祈った。


稲作と伝統芸能

伝統芸能も米作りと深く関わっている。日本の国技と言われている相撲はもともと農作物の収穫を占い、祈願する儀式だった。(2)

能のルーツも稲作にあるとされている。元々能の起源は田楽や猿楽であり、田楽は田植えの際に豊作を願い、歌や踊りを神にささげる行事だった。(2)

そして田楽が猿楽に取り入れられ、室町時代の観阿弥、世阿弥によって能が完成された。(2)


稲作で立ちはだかる問題

稲作をするにあたって、様々な問題が立ちはだかった。


水分配

水の多い地域は土地を改良したり水路を作ったりして水をコントロールし、逆に水が少ない地域では、いくつかの村が共同で溜池を作り、灌漑用水などを作った。(1)

水の配分を巡って村の間で揉め事が起きることもあった。(1)


害虫・病原菌

稲作は昔から害虫や病原菌による被害によって苦しめられた。「ウンカ」による害や、いもち病が問題になった(1)


冷害

冷害には二つのタイプがあるという。(1)

  1. ある特定の時期の低温で花粉ができず開花が妨げられる
  2. 稲の生育期間全般に渡って低温、日照不足が続き、生育が遅れる


明治維新と米

明治維新になると、多収のために今まで民間が品種改良をしていたところに国がテコ入れするようになった。(1) また国家によって水田拡大の事業も多く行われるようになった。

明治維新後、今まで幕藩体制で支えられていた米の流通システムが崩壊し、新たな流通システムを作る必要性が生まれた。また、国内の混乱が収まって対外進出の動きが活発化すると、兵站としての米の需要が高まった。(1)

そこで明治政府は米の生産量を増やすこと、同時に質を向上させるために様々な施策を打つことになる。

量:

  • 北海道開拓など農地を増やすこと
  • 河川改修・水がないために耕作ができない土地への灌漑

質:

  • 品種改良
  • 土壌改良
  • 肥料や農薬の開発


洋食の普及

明治維新から、食に大きな変化が訪れた。「洋食」の普及だ。

明治政府は肉食を導入して食事を欧風にすることは「列強」の仲間入りをすることに欠かせないと考え、「富国強兵」政策で、肉食が強く奨励され、明治天皇も自らが牛肉を食べて肉食を普及させようとした。(1)

しかし1200年は肉食を制限してきた(食べられていたのは野生動物で、家畜は含まれていなかった)日本社会では、肉食の導入は素直には受け入れられなかった。(1)

そこで、日本独自の洋食が発明された。欧州の肉食とは異なり、「すき焼き」など牛肉を日本でなじみある醤油や砂糖で味付けされたものが出てきたり、豚肉もカツ丼など米と一緒に出る料理として普及した。カレーライスも肉やミルクなどの洋の要素をとりいれつつ米を加えた和食の一部と捉えられる。(1)

洋食の普及というと、米に置き換わってパンが食されるイメージがあるが、明治時代の洋食の普及は、うまく米が洋食とマッチしていったため、米の需要が減っていくことはなかった。


進んでいく農業の機械化

大正時代(1912年~1926年)の年代になってくると、機械の農業化が進み、人力が電気や石油から生まれる動力に置き換わっていくようになる。

田んぼの水の揚水、排水、脱穀作業、籾すり作業、精米作業、製粉作業、藁の加工作業などは、次々と機械化されていった。(4)


政府による米の統制の強化

米の流通に関して、明治から大正かけては、米は自由に売買されており、価格も市場の需要と供給で決まっていた。(2)

しかしその後凶作が重なったり、戦争が激しくなっていき、食糧不足の問題がで始めると、食料の安定的な供給のために政府が流通に介入するようになっていく。

政府が流通に介入するようになっていったのは、1918年に米騒動が起きてからだった。

元々ロシア革命に干渉するためにシベリア出兵を計画したことから始まるのだが、この出兵を見越して米の買い占めが起こったために、価格が急騰した。(2)この事件をきっかけに、米は政府による統制の対象になっていく。

安定的な供給のために様々な変化が起きた。

  • 1939年:米の価格を政府が決める形へ
  • 1940年:米の個人取引の禁止。農家は産業組合(JAの前身)を通して米を出荷
  • 1942年:食料管理法の制定(お米を国家で管理する法律)


米の生産量が増えた1950、60年代

1950,60年代には米の生産量が格段に上がった。


農林水産省 「作物統計 長期統計」 水稲と陸稲の収穫量の合計 (表をクリックすると拡大できます)


米の生産量が増えた理由に何があったのだろうか?

  • 農地改革
  • 農業水利の改良、ほ場整備事業
  • 品種改良、肥料、農薬


農地改革

50年代の後半に米の生産量が増えた理由として、農地改革がある。

戦前や戦中日本の農村には、農地を所有する地主が、農地を持たない小作農家に農地を貸出し、小作料を受け取る地主制という仕組みがあった。

戦争が終わると、地主制を解体し、自作農家を作る取り組みが始まった。1947-50年までに実施され、農地の約9割は自作地となった。


農地改革によって何が起きたか?

農家が自分の土地を持つことができるようになり、収穫した農作物は全て自分の収入とすることができたので、生産意欲が高まった。(2)


品種改良、肥料、農薬

新品種の作成によって、耐冷性を持つ多収品種で、寒冷地での増産に大きく貢献した。また化学肥料や農薬が普及した。

近代的な化学合成農薬に関しては、1938年にパウル・ヘルマン・ミュラーが DDTに強力な殺虫作用があることを発見したことによって始まり、日本では第二次世界大戦後に化学農薬が本格的に使用され、DDTやBHCなどの有機塩素系殺虫剤が最初に使われた。

詳しくはこちらに書いた。


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農村と都市、働き方の変化

50年代から農村から都市部への大規模な人口流出が始まった。54年に東京で集団就職が始まり、57年には地方から都市部へ集団就職列車が運転されるようになった。(2)

71年には農村地域工業等導入促進法が制定され、農村への工場の進出と、農業従事者の工場への就業が進められる(2)

兼業農家の割合はこの頃から増え始める。主要な働き手である男性が都市部に出て、それ以外の家族によって行われる三ちゃん農業も増えた。

この農業形態を可能にしたのは機械化であり、稲作の場合は代かき、田植え、収穫など全てで機械化が進んで10aあたりの労働時間は1951年の1/2まで下がったとされる。(2)


米の収穫量は増えるが、消費量は落ちる

米の生産は順調に伸び、1967年には史上最高の1425万tが収穫され、外国からの輸入米もほとんどなくなり、米の自給体制が完成した。(2)

しかし、今度は逆に米余りの状態になっていった。


米の消費量が減少

収穫量が増えた頃には既に米の消費は減少傾向にあった。年間一人当たりの消費量は1962年の118.3kg、国全体の総消費量は63年の1341万tをピークに減り始める。(2)

2018年には一人当たり53.1kgまで消費が減る。

なぜ消費量が落ち始めたのだろうか?原因としては以下のようなことが挙げられる。

  • 食生活の欧風化・多様化
  • 人口減少
  • 高齢化
    など


第二の洋食普及と米離れ

新たな洋食が普及し始めた。米国から支援の名目で大量に小麦粉が持ち込まれ、そこから、学校給食のパンと脱脂粉乳が大きく広まった。

また、食生活の時短や、核家族の進行、家庭内の家事労働時間の短縮がパン食の普及を後押しした(1)

このパン食にともなって新たな洋食の普及した。明治維新の時のような和洋折衷の洋食ではなく、パン食にともなって普及した洋食であり、この時パンは米と置き換えることができる代替食としての性格をあびていた。(1)


緩くなる政府の介入

戦後まもない頃までは深刻な食料不足の問題を抱えていたために、政府が米の供給に大きく関わっていた。

これまで米の生産量を上げるために、食糧管理法の元、農家から高くお米を買取り、消費者に安く売るように政府が価格をコントロールしていた。

50年代の後半になると米の生産量が増えていったが、米の生産量が増えるに従って、今まで全ての米を買いあげて供給していた政府の財政的負担も大きくなっていった。

1970年には720万トンまでに達するようになり、ここから米政策も変わっていくことになる。


農林水産省 「米をめぐる関係資料」p5


1971年には米の作付けを制限する減反政策が本格的に始まるようになる。作る米の量を減らすよう農家に伝え、協力した農家にはその分奨励金が支払われるという仕組みだった。

これと同時に米の流通も規制緩和の方向に向かうようになった。90年代には自主流通米の割合が増えていき、政府を通して流通する米は全体の3割程度まで減った。(2)


平成時代の米の流通の大きな変化

1993年に記録的な冷夏で米不足が起き、対策として海外米が輸入されたが、食べなれない米に消費が伸び悩んだ。(平成の米騒動)

この時大量のヤミ米(食糧管理法に違反して、直に生産者から消費者に売られた米)が流通し、90年代には、正規のルートで流通する米の1/3から半分に相当する250万ー300万トンが出回っていたとされている(2)

すでに米の流通を統制していた食糧管理法は機能しない部分も出てきていたため、95年に廃止され、新たに食料法が試行されることになる。

食糧管理法では農家は原則JA(農協)に出荷するように決められていたが、食料法によって、農家は直接卸売や小売、消費者に米を販売できるようになった。


変化する農業界と法律

1961年に農業基本法が施行されたが、それは以下のような目的があった。

  • 農業の近代化
  • 農家と他産業従事者との所得格差を是正

それが平成に入ると、1961年とは異なる状況になってくる。

  • 高齢化
  • 農産物の輸入自由化
  • 食料自給率の低下

そこで大きく変化する社会に合わせて、1999年に新しく「食料・農業・農村基本法」が制定された。

新基本法では以下を大きな理念としている。

  • 食料の安定供給の確保
  • 多面的機能の発揮
  • 農業の持続的な発展
  • 農村の振興

など

そして農業によって中山間地域の多面的機能が支えられているとして、中山間地域等直接支払制度も導入されるようになる。


中山間地域とは何か 定義と役割

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農村の多面的機能を支えるための制度


農村には食糧生産以外に数多くの多面的機能が存在し、人々の生活を豊かにしている。

  • 洪水を防ぐ
  • 土砂崩れを防ぐ
  • 地下水を作る
  • 暑さを和らげる
  • 農村の景観を保全する
  • 文化を伝承する
  • 次世代に食物生産の教育をする
  • 生物の多様性が守られる


農業・農村が持つ多面的機能が地域の環境を守り、景観の美しさや文化を次世代に継承する

農業は人類が生きていくのに必要な食糧を生産する重要な役割を果たしているが、実は食糧生産以外にも農業は様々な面で恵みをもたらしてくれている。こうした多くの機能を「多面的機能」と呼ぶが、農業における多面的機能にはどのようなも ...

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しかし、農家の減少、高齢化、耕作放棄地の増加によって、特に中山間地域で意地してきた地域システムが機能しなくなってきている。中山間地域の多面的機能の維持を目的とした地域活動を支援するため、「日本型直接支援制度」をはじめとした様々な制度が整備されてきている。



日本型直接支払制度とは?  地方の農村の機能を維持する

現在松之山黒倉の地域おこし協力隊として、日本型直接支払制度の助成金の事務仕事を行なっている。この助成金はどのような役割をはたしているのか?整理してみた。 日本型直接支払制度とは? 日本型直接支払制度とは、農業の持つ多面的 ...

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未来の米づくりの課題

これらの歴史を踏まえて、未来の稲作はどうあるべきなのか?考える点は山積みだ。

  • 耕作放棄地の増加:今後米を作らなくなる土地をどのように使うのか
  • 高齢化・農家の数の減少
  • エネルギー問題:現在の稲作の方法は持続可能か?
  • 米価の低下・農家の所得の低下
  • 減少するお米の消費量(消費者にとっては課題ではないが、米づくりの農家の視点からすると課題)




参照:
(1) 佐藤洋一郎『米の日本史 稲作伝来、軍事物資から和食文化まで』, 2020
(2) 八木 宏典(監修)『最新版 図解 知識ゼロからのコメ入門 』, 2019
(3) 江戸時代にはお米が「証券化」されていたことをご存知ですか
(4) 稲作の歴史


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